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Re: (無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月23日(火)22時02分31秒
返信・引用
  > No.20[元記事へ]

> 人と人が接すれば色んな問題が出てくるし、山で一人で修行するのが修行に集中できるし

平岡聡の本の中で、
俗界にいたのでは修行できないので、人は出家して俗界から隔絶した生活を送る。たとえば、禅定(精神集中)を修する場合、人里離れた古寺の本堂と、雑踏行き交う渋谷の忠犬ハチ公像前では、どちらが容易に精神集中できるかは言うまでもない。では、人里離れた古寺でしか禅定できない人と、渋谷の忠犬ハチ公像前でも禅定できる人と、どちらの修行が進んでいるのか。それは明らかに後者である。
真の不動心を獲得した人に場所は関係ない。修行半ばの人が俗界に戻れば、すぐに俗に流されてしまうが、真の聖者は俗界に戻っても、その俗に流されたり、俗の影響で聖を失うことはない。(俗)はもちろん、(小さな聖)も超越し、(大なる聖)を獲得する、これぞ大乗仏教の真骨頂。蓮は泥水の中にあって浄らかな花を咲かせるのである。

成程ですね。
でもお道は最初から、雑踏行き交う渋谷の忠犬ハチ公像前(俗界)。それに「この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」と体をいたわり心の修行に特化している。ある意味難しいですね。
 
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月21日(日)14時30分45秒
返信・引用
  明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時
「風がかりもの無うては、箱に物を入れて蓋を閉め切りた如く、腐ろうより仕様の無いもの。風がそよ/\あるので、半日や一日は送れるで。人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。」
「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」

皆様は理不尽な出来事で腹の立つ事はありませんか?こちら側に落ち度があるならば謝罪も反省もします。しかしこちらに何も落ち度がない場合や好意でした事が逆に帰ってきたら腹も立ちませんか?
人によっては腹の立つポイントが違うため一概にはどうだとは言い切れませんが、明らかに神から試されているだなあと思います。
及第点をもらえず、いつまでも再試験をしていますが、結構結構。私は人徳者ではありませんから(笑)。
でも堪忍は心がけています。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月21日(日)14時13分13秒
返信・引用
  ブログ<原典からの出発>(since2009.12.16)  植田義弘氏
教会制度は戦時中70年前に「革新」されていた
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-152.html
教会「名称の理は末代」の誤解
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-153.html

本部も事情教会をいつまでも残していくより、植物をきちんと生長させるためには間引きが必要なように、整理していけばいいのに。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月15日(月)22時45分45秒
返信・引用
  「信者数が激減している天理教の上層部のみんな。」
「自分からにおいがけしなければ信者が出来ないと思ってない。」
「あは」
「じゃ質問です。花は自分からミツバチを捜しにいきますか?」♪
「捜さない。いい香りを発するの。」♪♪
「撒いてごらん。自然と人は寄ってくるから。」♪x3
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)23時29分54秒
返信・引用
  「えー天理教を離れたいけど離れられないの。」
「じゃ質問です、御利益のない御守りいつまでも持っていますか?」♪
「御利益のある御守り持ちたくない。」♪♪
「宗教は御守りと一緒、御守りは御利益があって価値ある。なければ持たなくていい。」
「だって!日本に宗教法人、いくつあると思っているの」♪x3
18万1961・・・18万1961・・・18万1961」
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)19時22分55秒
返信・引用
  山の仙人より里の仙人。
人と人が接すれば色んな問題が出てくるし、山で一人で修行するのが修行に集中できるし、人は一人で生きていけないし、実質の所、互いに助け合いですか。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)11時47分58秒
返信・引用
  交通事故を起こしたら色情いんねんがあると聞いたことがありませんか。
神殿講話の中で「そんな事、おやさまは言われたんか、おやさまがおられた時代に車なんかあったんか」と尋ねれば「女性は乗る者」と女性を侮辱する人がおられた人があったと話を聞いたことがあるのですが、その時、私は不謹慎ながら笑ってしまいましたが。
よくお諭しは比喩でされるのですが、この様なお諭しは愚の骨頂ですね。
 

4人の棟梁

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)08時58分36秒
返信・引用
  十二下り目
四ッ よきとうりやうかあるならバ はやくこもとへよせておけ
五ッ いづれとうりやうよにんいる はやくうかゞいたてゝみよ
八ッ やまのなかへとゆくならバ あらきとうりやうつれてゆけ
九ッ これハこざいくとうりやうや たてまへとうりやうこれかんな

天理教教祖中山みきの口伝等紹介さん
http://blogs.yahoo.co.jp/kunitokoomotari2tu1tugatennori/25773762.html
「いづれとうりやう~」について
昭和十一年七月号みちのとも「第五回教義及史料集成部座談会」より(高井→高井猶吉、山澤→山澤為次)
(山澤)‥『いづれとうりやうがよにんいる』と仰せになって居ますが、あらき棟梁の次は
(高井)‥かんな棟梁や。かんな棟梁が、チャンと削り上げとかな建てられんわな。
 あらき棟梁は、今で言うたら製材するのやな。これは棟木や。これは垂木や言うてな。心の方が行ったら、ターと布教する人は、あらき棟梁やな。又布教したら、括(くく)りせんな一つの講にならへんわな。そしたら、講の組み立てする人も要るわな。
 内造りはトート話して、精神改める所は改めて、道の定木直して行かんなんわな。千里大藪中も、大山中も、神さん『道一筋につける』と仰った。針の唐鍬てあらへん。その筈や。教理で道つける。道真っ直ぐにつけるのやあらへん。心真っ直ぐに一筋道につける意味や。

普通に考えれば、4人の棟梁は、
「荒木棟梁」「小細工棟梁」「建前棟梁」「鉋棟梁」になりますが。
しかし、「あらきとうりやう」」「こざいくとうりやう」「たてまへとうりやう」
第四の棟梁に就いては、教祖は何とも仰ってない。
皆様はどの様に思われますか?
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月11日(木)23時09分52秒
返信・引用
  ここは私のツイッターみたいになっています。立ち上げて間もないため閲覧者も少なくて、その上に門戸が狭いため無理もないですかね。  

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 5日(金)09時58分34秒
返信・引用
  海水浴場に行く途中にある分教会が表札を外していた。
調べてみるとこの教会は教祖四十年祭活動方針として教勢倍加運動で設置された教会だと分かった。古くなった建物を見てみると寂しさを感じます。

「夏草や兵どもが夢の跡」にかけて「廃屋やようぼく達が夢の跡」という感傷に浸る。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 3日(水)10時13分19秒
返信・引用
  おふでさきは話の台で重要ですが、おさしづは神意を知る上で重要です。しかし繰り返す言葉や連なる文章になってないため難解難透であります。
異端者が共通しているのがおさしづを読めない。人を見て話しを信じる。
それよりも自ら人が解釈したのを信じ切るのではなく三原典を勉強することです。
おやさまに教えて下さいと願う事です。
にち/\にしらぬ事をやない事を これをしへるが月日たのしみ (8-77)
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 2日(火)19時20分6秒
返信・引用
  「反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。」
                                   (明治29年4月21日)
このおさしづは、内務省訓令の心得で仰られた事であるが、
普通に解釈すれば、反対者も信仰者も我が子と変わりないは分かりますが、次の言葉で、信仰者でも言われた事を用いなければ反対者と同じである。
いくら熱心に信心しても、妨害する者と用いないだけで同じなら、熱心に信心するだけ無駄で天理教に関わらない方が幸せではないでしょうか。
そこに反対がありませんから。

それに、その用いなければいけない事が悟り違いや勘違いだったらどうなるのでしょうか?
六ッ むしやうやたらにねがひでる うけとるすぢもせんすぢや
七ッ なんぼしん/\゛したとても こゝろえちがひはならんぞへ
八ッ やつぱりしん/\゛せにやならん こゝろえちがひはでなほしや(六下り目)
これまた悟り違いや勘違いでもいけない。出来たら天理教の話しは哲学や道徳と同じ扱いとして聞かない方が良いのかも知れませんね。
「聞いて行わないのは、その身が嘘になるで」嘘となれば誠ではない。天理教は「誠」であり、「誠」でなければ道の人ではない。
すべての人間の親として甘えるか、誠を貫き道を歩いていくか、選択しなければならないのでしょうかね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 4月26日(水)19時34分9秒
返信・引用
  ある方のお諭で、助かるか助からないかが真理の証明である。
神の一言で助かる。

おさづけが効く人も、そのおさづけをした人が
「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。」
毎日、神から見て誠の人だと認められた人でもあるんですね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 4月24日(月)23時27分3秒
返信・引用
  次のおふでさきは、注釈以外どのように解釈できるのでしょうか?

たん/\と十五日よりみゑかける 善とあくとハみなあらハれる (2-44)
※だんだんと十五日から、如何な事も現れて来るであろう。善は善、悪は悪、と親神の鮮やかな仕分けが目に見えてくる程に。

しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや (3-64)
※これは、立教後三十六年某月二十五日の暮合に、お屋敷の掃除をしに来る者のある事を仰せられたのである。(中略)今後は人々が胸の掃除をするよう、
 親神様がお手入れをして下さる、と教えられたのである。

二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす (3-147)
※これは明治七年二月二十二日の夜の五つ刻(今の午後八時)の「おふでさき」で、(中略)教祖様は、辻忠作に「今これを書きました。よく見なされ」と
 このお歌を示して親神様の話をじゅんじゅんとお説き下されたのである。
 

初めに

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 4月22日(土)11時36分2秒
返信・引用
  このスレッドを立ち上げた理由は、
教義・教理の紹介はプログでも述べてらっしゃる人が多くて、教団への批判のブログや掲示板(2ch等)はある中で、教団の内情暴露、人の非難に徹していて一方では教祖の本来の教えに立ち返るべきと仰りながら教理のどこが違うのかを根拠を持って述べてらっしゃる方が少なく、そういった場所は、教団批判の教理は受け入れやすいが少しでも教団擁護に捉えられる教理だと受け入れない。(教団のやり方を擁護する気持ちはありません)
あくまでもその様な事にとらわれずに真実の教理を追求したい思いでこの掲示板を立ち上げました。信者の人や信者でない人も教理の事であれば投稿して下さい。
 

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