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(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 8月15日(火)21時57分51秒
  仏教は奥が深くて難しいけど、日本の仏教は原始仏教と違う。天理教はかなの教え、まだとっつきやすい。  
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 8月11日(金)10時54分55秒
  テレビで百田尚樹が、「成功する人は今しなければならない事を必ず今する。成功しない人は今しなければならない事を後回しにする。」と言っていたが、
お道の人は、今しなければならない事を後回しにして、神の事を先にするのやろなあ。一歩間違えれば奈落の底やろなあ。まあ、お道は自分の成功より人の成功だからなあ。それが周りに回って自分の成功になると説くからなあ。中山家も人に施して貧乏になり、谷底からせり上がった姿が今の裕福な姿やからなあ。しかし、恨みを抱いている人々もいるからなあ。色んな側面で見る事は大切だと思う。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 8月 8日(火)20時02分51秒
  ある宗教の法論をよく見ているがお互いよく勉強しているな。天理教は基本的には他宗教と議論をしないからな。
しかし、教祖伝で「『問う事あらば、問え。』と。文吾は次々と難問を発したが、教祖は、これに対して一々鮮やかに教え諭された」とあるから議論するのは否定されてないみたいですけど。相手によりけりなのかなあ。
 

こどもおぢばがえり

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 8月 3日(木)20時09分1秒
  昔、こどもおぢばかえりの時、子供たちが喜ぶだろうと思って、レンタルビデオで怖いビデオを借りて詰所で子供たちに見せたら、帰りに子供たちがビデオの話題で持ちきりで、会長におぢばと関係ない事をしてと怒られたなあ。でもこどもおぢばかえりは楽しい思い出が残ればそれでいい。  

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 7月29日(土)23時10分36秒
  かんろだい倒壊してから、どの天理教関係のブログもアクセス数が上がったみたいですけど、それだけその事について興味があり、神意を探ろうとする方が多くいらっしゃるのでしょう。
しかし、世間から見ればほとんどの人が興味のない事、まして世界から見れば関係ない事、それが現実です。
 

あなたは信じますか

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 7月11日(火)22時06分55秒
  教祖は逸話編で霊の存在を肯定され、おふでさきも魂を明記されてましたが、
私の身内に霊感のある人がいて、身内の葬儀の時、その亡くなった人がお寺の中で不思議そうに見て回っていた姿が見えていた話しを聞いたことがあるのです。
それから四十九日法要の時にその亡くなった人が現れ、私たちは見えないので分かるようにしてもらえないかと霊感のある身内に言うと、その亡くなった人に向かって心で話しかけると、いきなりロウソクの炎が大きくなり、驚いた体験があります。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月25日(日)20時36分3秒
  キリスト教は宗派が違っても聖書が元だから聖書を勉強すればいいけど、仏教は宗派が違えば経典が違うから勉強するのは大変で難しい。  

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月25日(日)12時02分48秒
  私の経験上大きな善悪の判断できる返しは10年単位。小さなことの返しは3日それで判断したらいいと思います。  

マスコミについて

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月25日(日)08時52分14秒
編集済
  加計学園の報道がテレビ局や新聞社によって印象操作する報道機関はどうかなあと思う。小林麻央さんが亡くなった時も、すぐに市川海老蔵に記者会見を開かしたほど市川海老蔵邸にまとわりついて近所迷惑になるのを考えなかったのか。少し静かにしておこうと言う気持ちがなかったのか。
マスコミは営利企業ですから視聴率や購買数を取れればヒーローもヒロインも作りたがるし、ボヤを大火事にするのがマスコミの使命ですから。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月24日(土)20時18分43秒
  自分自身が天理教で救われたなら理不尽な事があっても信仰するのは解りますが、先祖が救われて代々信仰している家は後の者ほど理不尽な事は納得できないでしょうね。
先祖が信仰によって助かり、普通なら家庭を持つことが出来なくて、子孫があるのは天理教の信仰で救われたとなれば、先祖が信仰しなければいいのではないかとなれば後の者の苦しみはないし、それはすなわち後の者の存在はないことになる。
お供えでお金やしまいめには全財産をお供えをして道専務になるのは、間違った行為であるが、その時の人は神一条を表す手段としてそういった行為をするのは信心の誠として親神様は受け取ったのではないでしょうか。
良くも悪くも親神様は返します。気づきませんか自分が人に対してやったことが自分に返ってくることが。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月24日(土)17時04分57秒
  天理教批判が主の掲示板、ブログに教理を聞くとは、どういった心境ですかね。同調してもらいたいのかな。  

Re: (無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月17日(土)20時10分40秒
  > 同じ苦労するなら自分の為に苦労する方が良いかもしれません。

違う意見として
天理教教祖中山みきの口伝等紹介
https://blogs.yahoo.co.jp/kunitokoomotari2tu1tugatennori/25773591.html

『はたらくというのは、はたはた(傍々)に楽して貰うからはたらくというのや。これが天理に叶う種や。めいめい(銘々)は今日まで、どんないんねんを重ねているやらわからん。そのいんねんを切って貰う為には、人の為に働かして貰わなくては徳は貰えない。徳を貰わなくては、いんねんは切って貰えないのやで。
ところが誰でも人の為に働く事はいやなものである。わが身損をするといって、なかなか働けないものや。けれど人の為に働くのは、丁度水に譬えていうならば、池の水を向うへ押すようなものやで』
と仰った。
『池の水をいくら向うへ押しても押しても、池の水はすぐに横から帰ってくる。これは天理や。これが天理である如く、人の為に働く事はいやなものやけれども、池の水を向うへ押したら水がすぐ帰ってくるように、徳を返して下さるのやで。この徳によって、今日までに重ねて来たいんねんも切って下さるのや。めいめいには前生々々の道すがらは、解らないけれど、どれだけいんねんを重ねているやらわからんのや。こうした徳によっていんねんを切って下されるのやで。』

悪いんねんはたんのうでしか切れませんけど、水の例えの諭しは解りやすいですね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月 4日(日)09時01分33秒
  天理教は一人の幸せより全体の幸せ、一人の苦労により傍の者を楽させる教え。
考えようによってあまりポピュラーにならない方が良いのかもしれない。世間に人によって苦労する人が増えるだけですから。
同じ苦労するなら自分の為に苦労する方が良いかもしれません。

自分さえ良ければよいと言う考えは違いますけど、その様な事は、昔の人はともかく、今の人は解りきっていますから。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 6月 3日(土)23時24分3秒
  カウンターを見ると勇めないので消しました(笑)。
天理教の「御供え」についての掲示板にリンクを紹介したら2百ほどカウント数が増えそうだ。しかし、あそこの掲示板を見に来ている人は、ほとんどの人が教団批判の人だから教理研究はあまり見向きもしないだろう。
2chも投稿していたので、そちらにリンク先を貼るかなあ。

でも考えによっては気楽だなあ。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月28日(日)12時01分41秒
  原典解釈は人によって分かれる時がありますけど、明らかに原典を読んでない目を通してない人は、素人の私でも解る。その人の教理解釈はあまり読む気がしません。しかし、原典解釈ができる人の教理解釈は、その人から学びたい参考にしたいと思います。  

Re: (無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月23日(火)22時02分31秒
  > No.20[元記事へ]

> 人と人が接すれば色んな問題が出てくるし、山で一人で修行するのが修行に集中できるし

平岡聡の本の中で、
俗界にいたのでは修行できないので、人は出家して俗界から隔絶した生活を送る。たとえば、禅定(精神集中)を修する場合、人里離れた古寺の本堂と、雑踏行き交う渋谷の忠犬ハチ公像前では、どちらが容易に精神集中できるかは言うまでもない。では、人里離れた古寺でしか禅定できない人と、渋谷の忠犬ハチ公像前でも禅定できる人と、どちらの修行が進んでいるのか。それは明らかに後者である。
真の不動心を獲得した人に場所は関係ない。修行半ばの人が俗界に戻れば、すぐに俗に流されてしまうが、真の聖者は俗界に戻っても、その俗に流されたり、俗の影響で聖を失うことはない。(俗)はもちろん、(小さな聖)も超越し、(大なる聖)を獲得する、これぞ大乗仏教の真骨頂。蓮は泥水の中にあって浄らかな花を咲かせるのである。

成程ですね。
でもお道は最初から、雑踏行き交う渋谷の忠犬ハチ公像前(俗界)。それに「この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」と体をいたわり心の修行に特化している。ある意味難しいですね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月21日(日)14時30分45秒
  明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時
「風がかりもの無うては、箱に物を入れて蓋を閉め切りた如く、腐ろうより仕様の無いもの。風がそよ/\あるので、半日や一日は送れるで。人の言う事を腹を立てる処では、腹の立てるのは心の澄み切りたとは言わん。心澄み切りたらば、人が何事言うても腹が立たぬ。それが心の澄んだんや。」
「今までに教えたるは腹の立たぬよう、何も心に掛けぬよう、心澄み切る教やで。」

皆様は理不尽な出来事で腹の立つ事はありませんか?こちら側に落ち度があるならば謝罪も反省もします。しかしこちらに何も落ち度がない場合や好意でした事が逆に帰ってきたら腹も立ちませんか?
人によっては腹の立つポイントが違うため一概にはどうだとは言い切れませんが、明らかに神から試されているだなあと思います。
及第点をもらえず、いつまでも再試験をしていますが、結構結構。私は人徳者ではありませんから(笑)。
でも堪忍は心がけています。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月21日(日)14時13分13秒
  ブログ<原典からの出発>(since2009.12.16)  植田義弘氏
教会制度は戦時中70年前に「革新」されていた
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-152.html
教会「名称の理は末代」の誤解
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/blog-entry-153.html

本部も事情教会をいつまでも残していくより、植物をきちんと生長させるためには間引きが必要なように、整理していけばいいのに。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月15日(月)22時45分45秒
  「信者数が激減している天理教の上層部のみんな。」
「自分からにおいがけしなければ信者が出来ないと思ってない。」
「あは」
「じゃ質問です。花は自分からミツバチを捜しにいきますか?」♪
「捜さない。いい香りを発するの。」♪♪
「撒いてごらん。自然と人は寄ってくるから。」♪x3
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)23時29分54秒
  「えー天理教を離れたいけど離れられないの。」
「じゃ質問です、御利益のない御守りいつまでも持っていますか?」♪
「御利益のある御守り持ちたくない。」♪♪
「宗教は御守りと一緒、御守りは御利益があって価値ある。なければ持たなくていい。」
「だって!日本に宗教法人、いくつあると思っているの」♪x3
18万1961・・・18万1961・・・18万1961」
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)19時22分55秒
  山の仙人より里の仙人。
人と人が接すれば色んな問題が出てくるし、山で一人で修行するのが修行に集中できるし、人は一人で生きていけないし、実質の所、互いに助け合いですか。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)11時47分58秒
  交通事故を起こしたら色情いんねんがあると聞いたことがありませんか。
神殿講話の中で「そんな事、おやさまは言われたんか、おやさまがおられた時代に車なんかあったんか」と尋ねれば「女性は乗る者」と女性を侮辱する人がおられた人があったと話を聞いたことがあるのですが、その時、私は不謹慎ながら笑ってしまいましたが。
よくお諭しは比喩でされるのですが、この様なお諭しは愚の骨頂ですね。
 

4人の棟梁

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月13日(土)08時58分36秒
  十二下り目
四ッ よきとうりやうかあるならバ はやくこもとへよせておけ
五ッ いづれとうりやうよにんいる はやくうかゞいたてゝみよ
八ッ やまのなかへとゆくならバ あらきとうりやうつれてゆけ
九ッ これハこざいくとうりやうや たてまへとうりやうこれかんな

天理教教祖中山みきの口伝等紹介さん
http://blogs.yahoo.co.jp/kunitokoomotari2tu1tugatennori/25773762.html
「いづれとうりやう~」について
昭和十一年七月号みちのとも「第五回教義及史料集成部座談会」より(高井→高井猶吉、山澤→山澤為次)
(山澤)‥『いづれとうりやうがよにんいる』と仰せになって居ますが、あらき棟梁の次は
(高井)‥かんな棟梁や。かんな棟梁が、チャンと削り上げとかな建てられんわな。
 あらき棟梁は、今で言うたら製材するのやな。これは棟木や。これは垂木や言うてな。心の方が行ったら、ターと布教する人は、あらき棟梁やな。又布教したら、括(くく)りせんな一つの講にならへんわな。そしたら、講の組み立てする人も要るわな。
 内造りはトート話して、精神改める所は改めて、道の定木直して行かんなんわな。千里大藪中も、大山中も、神さん『道一筋につける』と仰った。針の唐鍬てあらへん。その筈や。教理で道つける。道真っ直ぐにつけるのやあらへん。心真っ直ぐに一筋道につける意味や。

普通に考えれば、4人の棟梁は、
「荒木棟梁」「小細工棟梁」「建前棟梁」「鉋棟梁」になりますが。
しかし、「あらきとうりやう」」「こざいくとうりやう」「たてまへとうりやう」
第四の棟梁に就いては、教祖は何とも仰ってない。
皆様はどの様に思われますか?
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月11日(木)23時09分52秒
  ここは私のツイッターみたいになっています。立ち上げて間もないため閲覧者も少なくて、その上に門戸が狭いため無理もないですかね。  

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 5日(金)09時58分34秒
  海水浴場に行く途中にある分教会が表札を外していた。
調べてみるとこの教会は教祖四十年祭活動方針として教勢倍加運動で設置された教会だと分かった。古くなった建物を見てみると寂しさを感じます。

「夏草や兵どもが夢の跡」にかけて「廃屋やようぼく達が夢の跡」という感傷に浸る。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 3日(水)10時13分19秒
  おふでさきは話の台で重要ですが、おさしづは神意を知る上で重要です。しかし繰り返す言葉や連なる文章になってないため難解難透であります。
異端者が共通しているのがおさしづを読めない。人を見て話しを信じる。
それよりも自ら人が解釈したのを信じ切るのではなく三原典を勉強することです。
おやさまに教えて下さいと願う事です。
にち/\にしらぬ事をやない事を これをしへるが月日たのしみ (8-77)
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 5月 2日(火)19時20分6秒
  「反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。」
                                   (明治29年4月21日)
このおさしづは、内務省訓令の心得で仰られた事であるが、
普通に解釈すれば、反対者も信仰者も我が子と変わりないは分かりますが、次の言葉で、信仰者でも言われた事を用いなければ反対者と同じである。
いくら熱心に信心しても、妨害する者と用いないだけで同じなら、熱心に信心するだけ無駄で天理教に関わらない方が幸せではないでしょうか。
そこに反対がありませんから。

それに、その用いなければいけない事が悟り違いや勘違いだったらどうなるのでしょうか?
六ッ むしやうやたらにねがひでる うけとるすぢもせんすぢや
七ッ なんぼしん/\゛したとても こゝろえちがひはならんぞへ
八ッ やつぱりしん/\゛せにやならん こゝろえちがひはでなほしや(六下り目)
これまた悟り違いや勘違いでもいけない。出来たら天理教の話しは哲学や道徳と同じ扱いとして聞かない方が良いのかも知れませんね。
「聞いて行わないのは、その身が嘘になるで」嘘となれば誠ではない。天理教は「誠」であり、「誠」でなければ道の人ではない。
すべての人間の親として甘えるか、誠を貫き道を歩いていくか、選択しなければならないのでしょうかね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 4月26日(水)19時34分9秒
  ある方のお諭で、助かるか助からないかが真理の証明である。
神の一言で助かる。

おさづけが効く人も、そのおさづけをした人が
「自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。」
毎日、神から見て誠の人だと認められた人でもあるんですね。
 

(無題)

 投稿者:十分八方  投稿日:2017年 4月24日(月)23時27分3秒
  次のおふでさきは、注釈以外どのように解釈できるのでしょうか?

たん/\と十五日よりみゑかける 善とあくとハみなあらハれる (2-44)
※だんだんと十五日から、如何な事も現れて来るであろう。善は善、悪は悪、と親神の鮮やかな仕分けが目に見えてくる程に。

しかときけ三六二五のくれやいに むねのそふぢを神がするぞや (3-64)
※これは、立教後三十六年某月二十五日の暮合に、お屋敷の掃除をしに来る者のある事を仰せられたのである。(中略)今後は人々が胸の掃除をするよう、
 親神様がお手入れをして下さる、と教えられたのである。

二二の二の五つにはなしかけ よろついんねんみなときゝかす (3-147)
※これは明治七年二月二十二日の夜の五つ刻(今の午後八時)の「おふでさき」で、(中略)教祖様は、辻忠作に「今これを書きました。よく見なされ」と
 このお歌を示して親神様の話をじゅんじゅんとお説き下されたのである。
 

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